頑張らないと好かれない…?「女教皇」と「女帝」のカード
こんにちは。
落ち着かない世の中の雰囲気もあってか、
はたまた私の力不足か(←90%それ)、
最近MIRORさんからのご依頼はめっきりと減りました。
ご注文下さったリピータ様、わたしを見つけてくださったご新規様、
本当に有難く思うばかりです。
あとは、このブログの最初の記事、
まさに、お店で言うなら玄関に、
「骸骨」をぶら下げていたからでは!?(;´Д`)
ということに、2週間くらい前に気付いたのです。
福沢諭吉さんの名言ですね。
人の表情は家でいえば玄関のようなものだ。(中略)
賢人のマネをして、ことさらに渋い顔をするのは、
戸の入り口に骸骨をぶら下げて、
門前に棺桶を置いているようなものだ。
一部改変
あわわ:(;゙゚''ω゚''):
失礼いたしました・・・
なので、今回は、「死」の話ではなく、
繁栄や実りのお話を・・・
頑張らないと好かれない…?「女教皇」と「女帝」のカード
「彼のため」「友達のため」「職場のため」「家族のため」…
そこで、受け入れてもらうために、上手くやっていくために
みんな少しずつ、自分の形を変えたり、
自分の本当の気持ちを押し殺したり、
見ないふりをしたりしながら、
現実の生活を送っています。
確かにそうすると、欲しいものが手に入ります。
欲しいもの・・・彼氏や友達、居場所、信頼や社会的な評価、給料など、が
手に入ります。
これらそのものが欲しいとは思います。
でも。
本当に欲しいものは、これらを手に入れることで得られる、『安心』かなと思います。
でも、それって、『(みんなと一緒だから)安心』である場合もあります。
『みんなが持っているモノ』を持っていて、みんなと一緒だと、ほんとうに安心。
みんなと一緒、みんなで目指す、人としての高い理想…
Ⅳ・教皇の世界観です。
でも、正直なところ、誰にも咎められないとしたら、
あなたは身近にいるその人のこと、正直、好き?嫌い?
そういう扱いをされることって、正直、快適?不快?
社会の常識とかは無視して、『自分にとって』が大切。
これ、タロットの「Ⅱ・女司祭」の世界観。
言葉にならない、でも確かに自分の中に存在を感じる何か。
『好き嫌いをしてはいけません』『みんなと仲良く』『常識的に、道徳的に…』
私たちには、このような感覚が刷り込まれていますけど、
本当は、好き・嫌いって、あなたという身体から発するどうしようもないもの。
「道徳的に正しいのは分かるけど、わたしそれ嫌いなの」というもの。
それは、あなたの核となる部分。
現実に適応するために、ここをごまかし続けているのって、
本当の自分を、自分で痛めつけているのと同じこと。
可能な限り、自分の感覚を大切に。
嫌いなこと、イヤな事、まわりにちゃんと言えていますか?
嫌われることを恐れて、言えないことが多いかもしれません。
でも、たいていの場合は、少しくらい言っても大丈夫。
そりゃ、面と向かってあなたが嫌いと言う必要はありません。
礼儀に反してしまいます。
「そういう発言は私の前ではしないで」「わたしタピオカ嫌いなの」
大きなことから日常の事まで、
自分の身体の反応に、よく耳を澄ませて、大切にしてあげてください。
このような自分の核は、あなたという人の繁栄の種みたいなもの。
「Ⅱ・女司祭」で大切にした自分が、「Ⅲ・女帝」で、花開き、実ります。
このゆったりと座る女性のように・・・
それは、努力とか頑張ることではなく、
生き物としてのあなた自身が発する、
身体とそこに宿る心からの生命力。
こうしたい、ああしたい、あれが欲しい、楽しい、嬉しい、という
生命としての身体から発する衝動。
これ大切にしてほしいです。
「女帝」のああしたいこうしたいは、
植物が実りを付けるのと同じこと。
義務でもなければ権利でもない、生き物として自然に生きた故の実り
しっかりと満たされたうえでの「こうしたい」は、
『単にしたいからするだけ』になります。
相手に、見返りを求めるような感じが伝わってしまったり、
自分の欠乏したものを埋めるためのものではなくなります。
本当は、
頑張らなくても、
女を磨いたり男を磨いたり、
母として父として育児本を読み漁ったりしなくても、
あなたは今のままで十分に豊かで愛されていいんです。
それが「Ⅲ・女帝」からのメッセージ。
そういう世界観があるということを、頭の片隅に入れてみていただけたらなぁと思います(^^)
お読みくださり、ありがとうございました。