骸骨の古今東西
タイトルの主語大きいですけど、そんなに物知りじゃないです。
わたくしの個人的な興味・関心の範囲内の、がいこつのお話…
そういえば、春の芽吹きも、冬という“死”(に見える現象)のあとに、訪れるんですね…
四季も身体も、死と再生(破壊と創造)を常に繰り返している。
そんな世界観は、福岡伸一氏「生物と無生物のあいだ」で、科学的な視点から楽しむことができます。
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なぜ骸骨の事を書きたくなったのか。
たぶん、引き金は、新型コロナウィルスの流行です。
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ヨーロッパの歴史が好きな私は、感染症と聞くと、やはり14世紀のペストの大流行が想起されます。
学校の授業などで、ペスト(黒死病)の名前は聞いたことがあると思います。
この時も、十字軍や商人などの人の往来の活発化による感染の拡大だったようです。
下のような、ペストを防げるとされたマスクをしている医師の写真が有名です。
※当時の人達は真剣だったはずです
人がめちゃくちゃ死んだ時代でした。
ヨーロッパの全人口の30~60%の人が亡くなったそうです。
(Wikipediaより。数値にずいぶん開きがある感じもしますね)
ただ、そんなパンデミックの中で、“死なない人もいる”、というのもまた、
生き物としてのヒトとして、大変興味深いですよね。
(ちなみに、私はまだインフルエンザに罹ったことがたぶんありません。恥ずかしながら、予防接種もしたことがありません。不思議ですね。いつか痛い目見そう…)
話が反れましたが、人がどんどん死ぬ・・・
ただでさえ、昔の人達って現代人よりも死が身近だったとは思うのですが、
病気の流行によって、さらに死が身近となり、
誰にでも…つまり、神父でも、王でも、貴族でも、農奴でも、
敬虔な信者にも、不真面目な信者にも、
真面目に働いていても、サボっていても、
死というものはランダムで訪れるんだ、という感覚が広がったようです。
骸骨は、死の訪れの象徴。真ん中の帽子をかぶった人は、たぶん聖職者級の相当偉い人。偉い人にも、無差別に、死は手を引いていく…
子どもにも、病気の者(当時の被差別者?)にも、騎士などの貴族階級にも、庶民にも…
このような絵がたくさん描かれたようです。
上記は、このような時代背景を元に沢山描かれた『死の舞踏』というテーマでの版画絵。
そう、死は、当時の人にとっても現代の人にとってもやはり怖いことですが、
上記のガイコツたちは、おどけたひょうきん者にも見えます。
がいこつだけど、貴族が社交場で踊るようなダンスをしてたり…
軽やかそうです・・・骨だけに。
そう、がいこつに象徴される『死』は、どうやら、古今東西、生きている時よりも“軽やか”になることが多いようです。
※彼なんて、身も心も本当に軽やか。(ONE PIECE:ブルック)
↑ 日本のおばけ(?)、狂骨。
私の大好きなミステリーシリーズの登場人物、京極堂によると、
古今東西、本来骸骨というものは、
野ざらしになって、骨になっても、相変わらず縁のあった人を怨んではいるけど、
湿っぽく祟ったりはしないんですって。
よく笑い、よく唄うのだとか。
骸骨は、現世の執着から逃れた、その人の真の姿を意味する記号だったのでしょうね。
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骨と対比されるのは“肉”。その肉に象徴されるのは、
肉欲という言葉もありますが、欲とか執着。
エゴとか、「こうなってほしい」「こうあるべき」という強い願望。
でも、お肉は美味しい…。欲があるから、生が楽しくもあるわけで。
欲を持つことも、時に欲を手放すことも、軽やかにできるようになりたいものです。
死んで骨になるとは、そういう欲や執着が、良くも悪くも自然に帰ってしまい、自分から削ぎ落とされてしまうこと。
それでも、骨は残るんですね。
今あるこだわりを手放しても、
あなたという“骨”、芯は無くならないんですよ。
失くせない、とも言えるかもしれません。
わたしはわたし、という根幹の部分ですね。
「手放して軽やかになる」…タロットの「死」にも、そういう意味合いがあります。
肉の部分…欲や願望は、裏を返すと『こうじゃないといけない』と自分が信じているもの、思い込んでいるものでもあります。
そういうものを手放すのはとても怖いです。なぜなら、自分がそれにすがっている面もあるから。
アイデンティティとして、自分の一部を構成していることもあるから。
でも、
今のあなたの状況に合わなければ、手放しでも大丈夫。
手放して、空いた空間には必ず新しいものが入ってきて、
ちゃんと融合していけるはずです。
お読みくださり、ありがとうございました。